こんにちは。今回は弥生時代についてお話していきます。
今回は遺跡や稲作、卑弥呼など、解説することが多いので長くなると思います。
それではご覧ください!
弥生時代の遺跡一覧
・吉野ケ里遺跡
日本最大級の環濠集落跡。逆茂木などの防衛設備が出土。
・登呂遺跡
保存状態のいい水田跡や高床倉庫が出土。
・板付遺跡
縄文晩期の土層から水田跡が発見され、稲作のルーツの一つとされる。
・荒神谷遺跡
358本もの銅剣が一か所から出土。当時の祭祀や政治勢力の謎を解く鍵となっている。
稲作の伝来
稲作は主に縄文時代晩期から弥生時代前期に大陸から伝来したとされる。
伝来ルートとしては主に3つの説がある。
南方渡来ルート: 沖縄などの南西諸島を経由して北上してきた説。
朝鮮半島ルート: 中国の山東半島から朝鮮半島を渡り、北九州へ伝わった説(最も有力)。
東シナ海ルート: 中国の江南地方(長江下流域)から、直接九州へ渡ってきた説。
朝鮮半島ルートが最も有力視されてはいるものの、未だその謎は解明されていない。
渡来人によって伝えられた稲作は、狩猟採集を中心としていた頃よりも圧倒的に安定した食糧供給が実現することとなった。
しかし、これによって貧富の差が生まれ、争いがおこるようになっていった。
さらに、人々を指揮するリーダーも生まれ、争いは激化していった。
卑弥呼の登場
こうして争いが激化していたが、多くの人々はいい加減争いはしたくないと考えると思う者も増えていた。
そこで、邪馬台国の女王である卑弥呼をいくつかのクニの長とさせるという方針が定まった。
ちなみに、ここで出てきた邪馬台国とはどこにあったのかについては、近畿説と九州説がある。
中国の歴史書『魏志倭人伝』が記す邪馬台国への道程は、まず朝鮮半島の帯方郡を出発し、海岸沿いに韓国を南下してその北岸の狗邪韓国へ至る。そこから海を七千余里渡って対海国へ着き、さらに南へ海を千余里渡って一大国へ、そこからまた海を千余里進んで九州上陸の地である末蘆国に到達する。そこから陸地を東南へ五百里歩くと伊都国に辿り着き、さらに東南へ百里進むと奴国へ、そこから東へ百里で不弥国へと続く。ここから先は日数による表記に変わり、不弥国から南へ水行すること二十日で投馬国に達し、最後にそこから南へ水行十日・陸行一ヶ月を進んだ場所に、女王の都である邪馬台国があると記されている。
この記述通りに「南」の方角へ進み続けると、九州を通り過ぎて太平洋の真ん中に出てしまうため、方位の誤記や距離の解釈をめぐって今もなお議論が絶えない。
話を戻すが、邪馬台国だけでなく、卑弥呼にも謎は多くある。
卑弥呼と会えたのはたった一人の男性だけだったとされ、中国の歴史書『魏志倭人伝』に登場するだけでその他に記述がないからである。
卑弥呼が死ぬと、クニは再び乱れた。
しかし、壱与(台与)という女性が再び国を治めた。
弥生時代の暮らし
弥生時代の人々の暮らしについて解説する。
稲作が伝来したからと言って、その他の狩猟採集が終わったわけではない。
依然と麦や豆を栽培し、シカやイノシシを狩り、木の実を栽培していた。
そして、収穫した米は、高床倉庫に蓄えられた。
高床倉庫にはネズミ返しという機構がついており、ネズミによって米が食べられるのを防いだ。
さらに、大陸からは金属器が伝来し、鉄剣や銅鐸などが生まれた。
土器も、もろくて厚い縄文土器から、硬くて薄い弥生土器へと変化していった。
このように、稲作の伝来は、争いを生み、発展を生んだ。
稲作が日本にもたらしたのは、単なる食糧だけではなかったのである。
さて、いかがだったでしょうか。次回は「ヤマト政権の樹立と空白の4世紀」となっています。
空白の4世紀については本当に空白ですので語ることは少ないとは思います。
それでは!


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