どうもこんにちは!今回は関ケ原の戦いについて解説していきたいと思います。
合戦がおこるまで
1598年、当時天下を収めていた豊臣秀吉が死去。以後は徳川家康を筆頭とする五大老、石田三成を筆頭とする五奉行を中心に、秀吉の遺児、秀頼を支えていくという体制だった。
しかし、かねてより朝鮮出兵時から折り合いの悪かった石田三成ら文治派と福島正則・加藤清正ら武断派の対立が再燃。
豊臣譜代の前田利家が仲を取り持っていたが、1599年に利家が死去すると、ついには三成を武断派が襲撃するという騒動にまで発展した。
三成はなんとか逃げ延び、徳川家康を頼った。そして家康の仲介により、三成は奉行の座を奪われ、居城の佐和山城で蟄居となった。
同年9月、家康が秀頼に節句の挨拶に行った際、前田利家の嫡男、前田利長による家康暗殺計画が露呈する。
これを受けた家康はこの計画に加担した諸将に厳正な処分を下し、首謀者の利長にも討伐軍を派遣する。
これに利長は弁明を行い、翌年(1600年)に、人質を出して騒動は終息となった。
同年春頃、五大老の一人、上杉景勝と家康の関係が悪化。
家康は弁明のため、景勝に上洛を命じるが、上杉家臣の直江兼続が世にいう直江状を送り家康を挑発。
これに憤慨した家康は会津征伐を号令。家康自らも出陣し、本格的に上杉討伐が始まった。
合戦の経過
そんな折、同年7月に、蟄居となっていた石田三成が挙兵。徳川家臣の鳥居元忠が籠もる伏見城を襲撃、落城させた。この戦いで元忠は討死。
この報を受けた家康は会津から反転して西進を開始。
西軍は尾張国、清洲城の福島正則の説得を行っていた。
家康は8月に江戸に到着。正則の説得に失敗した西軍は尾張に侵攻。
一方、東軍は織田信長の孫である織田秀信の籠もる岐阜城を攻撃し、秀信を降伏させた。
9月には、家康が江戸を出陣し、西軍は関ケ原に着陣。三成家臣の島左近が杭瀬川の戦いで東軍を破った。
9月15日、両軍が関ケ原に着陣。家康は桃配山に本陣を置き、西軍と対峙した。
この時、家康は事前に毛利家臣吉川広家を調略し、合戦への不参加を誓約させた。
しばらくは西軍有利の状況であったが、突如松尾山に陣取っていた小早川秀秋が東軍へと寝返り、山麓の大谷吉継隊を襲撃。吉継は自刃した。
さらに、秀秋に続き、赤座直保・脇坂安治らも東軍へと寝返った。
これにより戦いの趨勢は決した。途端に形勢不利となった西軍は総崩れとなり、島左近は行方不明となった。三成も敗走し、1日足らずで決着した。
その後の情勢
逃走した三成は、居城の佐和山城に逃げ込もうとするが、小早川隊によって城を抑えられたために山中へ逃亡。
東軍の捜索から逃れようとした。
しかし、合戦の4日後には西軍の首謀者の一人である小西行長が捕らえられる。
さらにその2日後には三成も田中吉政の兵に捕縛された。
そして、その2日後にはもう一人の首謀者である安国寺恵瓊も捕らえられる。
これにより主な西軍の首謀者が一掃された。
9月27日には家康自ら大坂城に入城。
3日後には出羽の上杉景勝にも西軍の敗報が伝えられ、慶長出羽合戦にて最上・伊達連合軍と争っていた直江兼続も撤退。
10月1日に首謀者3名が京都六条河原で斬首され、さらし首となった。宇喜多秀家も八丈島へ流罪に処され、西軍についていた武将も改易された。
これにより、家康の反抗勢力は一掃された。


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