合戦解説 河越夜戦

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合戦がおこるまで

1545年、相模国を本拠とする北条氏康は、東に山内・扇谷上杉家、西に今川家と、東西に敵を構える形になっていた。

そんな中、7月ごろに今川義元と関東管領、山内上杉憲政が連携して北条領へと侵攻。

氏康は今川に向けて軍を向けるが、甲斐国を領する武田晴信(のちの武田信玄)の軍も今川の援軍として参戦したために途端に形勢不利となった。

狐橋の戦いで、今川方に敗れると、かつて氏康の祖父である北条早雲が本拠としていた興国寺城で籠城。

最後は武田の仲介によって今川有利な条項で和睦に至った。(第二次河東一乱)

一方そのころ、東では、山内・扇谷上杉連合軍が武蔵国にある北条方の前線拠点、河越城を包囲していた。

さらには氏康の妹婿である古河公方、足利晴氏も氏康と敵対する姿勢を示した。

8万ほどの連合軍に対する城内の北条軍は北条綱成・朝倉能登守ら約3000。

圧倒的不利な状況下にあった。

そして翌年の春、ついに氏康率いる本軍が出陣することが決定した。

合戦の情勢

まず手始めに氏康は、城内に策を伝えるべく、綱成の弟、北条綱房を派遣した。

そして、晴氏に和睦を要請した。

しかし、晴氏はこれを断固として拒否。

逆に北条軍に襲撃を行った。

結果、北条軍は戦わずして一時撤退した。

同年4月20日、真夜中に激戦は始まった。

氏康は兵の甲冑を脱ぎ捨てさせ、合言葉を用いて同士討ちを避けたうえで、連合軍の陣に攻めかかった。

ここで氏康自らも多くの首級を挙げた。

扇谷上杉家当主、朝定も討ち取られ、家臣の難波田正直は逃走中に井戸に落下して死んだ。

さらに、倉賀野行政といった武将らが次々に討ち取られ、進退窮まった晴氏も古河まで敗走した。

その後の顛末

この合戦により、扇谷上杉家は滅亡。

上杉憲政も、小田井原の戦いで武田信玄に敗れると、堰を切ったかのように離反が相次ぎ、ついには北条軍に攻められ、越後へ落ち延びることとなった。

足利晴氏は、古河城の戦いで氏康に敗れ、降伏し隠居。

以後は幽閉生活を送ることになる。

いかがだったでしょうか。

この合戦は期間自体があまり長くないので短い話となってしまいましたが、次回は「桶狭間の戦い」!是非、ご覧ください!

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