合戦がおこるまで
1551年、中国地方を震撼させる大事件が起こる。
なんと、周防国や長門国を領国としていた大大名、大内義隆が、家臣の陶隆房(のちの陶晴賢)の裏切りによって命を落としたのである。
これが後の世に「大寧寺の変」と呼ばれることになる。
義隆や、その嫡子の義尊を討った隆房は、九州の方面で勢力拡大を続ける大友氏の大友晴英に義隆の養嗣子として大内家を相続させた。
晴英は大内義長と名を変え、隆房も陶晴賢に名を改めた。
1554年、石見国の三本松城(津和野城)の吉見正頼が晴賢を討つべく挙兵し、三本松城の戦いが勃発した。
この戦いに、大内傘下国衆の多くが駆り出され、当然、安芸国を領する毛利元就にもその要請が入った。
しかし元就はこれを拒否し晴賢と訣別。
大内方の城を次々と攻略し、ついには厳島までをも占領した。
これを受けた晴賢は家臣の宮川房長らを派遣して毛利討伐にあたらせた。
しかし、元就は様々な策謀を駆使してこれを撃破。房長も自刃した。(折敷畑・明石口の戦い)
その後、元就は、周防に侵攻しようとするが大内方の一揆勢の前に苦戦。
しばらくは膠着状態が続いていた。
その間に毛利水軍が陶氏の居城、若山城を攻めるも撤退。
陶水軍も厳島を攻めたが失敗に終わった。
しかし8月下旬に吉見正頼が大内方に降伏すると、いよいよ本軍が毛利討伐への支度を始めた。
1555年、元就に城を追われていた白井賢胤が草津城周辺で毛利隊と争う。
同年3月、陶の重臣、江良房栄が厳島を襲撃したが、岩国へと撤退する。
しかし、陶は房栄の毛利方との内通を疑い、弘中隆包に命じて房栄を誅殺した。
その後、矢野城の野間隆実が白井賢胤の援軍を受け、離反。
仁保島を攻めたが熊谷信直らの隊に撃退され、結果、矢野城を包囲された。
敗北を悟った隆実は舅の信直を通じて毛利方に降伏し、賢胤は船で逃走した。
隆実は城を降ったところを襲われ死亡した。
一方元就は、厳島に築かれた宮尾城に、己斐直之と坪井元正を配備して守備にあたらせた。
合戦の情勢
9月21日、晴賢は2万余りの大軍を率いて岩国を出陣。
翌日の早朝には厳島に上陸し、宮尾城を囲んだ。
2日後、元就は佐東銀山城を出陣した。
宮尾城兵含め4500ほどの毛利軍は30日に元就率いる本隊・小早川隆景率いる第2軍・村上水軍の3つに分かれて密かに行軍を開始。
本隊は島東の包ヶ浦に上陸。
島中央にそびえる博奕尾に向け出立。
第2軍(小早川隊)は、筑前から来た陶水軍を称して密かに上陸。
村上水軍は、沖合に停泊した。
翌日、ついに合戦の火ぶたが切られた。
朝の6時ごろ、博奕尾山頂で待っていた本隊が鬨の声を上げて陶本陣のある塔の岡に向けて突撃した。
また、小早川隊も突撃を開始した。
意表を突かれた陶軍は総崩れとなり、晴賢は島から逃げようとした。
しかし、村上水軍によって船はことごとく撃沈・拿捕されていった。
殿となった周防水軍の頭、三浦房清も吉川隊によって討たれた。
晴賢は数名の近習とともに船を求めて西へと逃走。
しかし船がなかったために大江浦で自刃。
首は山中に隠された。
その後の顛末
その後、最後まで陰険の駒ヶ林で抵抗をつづけた弘中隆包・隆助父子もついには討死。
香川光景隊によって生け捕られた大和興武も元就の命により殺された。
3日後、晴賢の草履取りをとらえ、助命と引き換えに晴賢の首の場所を知った。
その後の首実験で、元就は晴賢を「逆臣」とし、その首を鞭で叩いたという。
しかし、厳島は聖域であるため、死体を全て対岸へと運び出し、島内の血の付いた土を全て入れ替え、7日間の神楽・万部経会が執り行われた。


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