人物解説 毛利元就 前編

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謀神の誕生

元就は1497年、安芸国の吉田郡山城を本拠とする毛利弘元の息子として生まれた。幼名は松寿丸。(便宜上、元就とします。)元就は次男であり、兄、興元を慕っていたため、自らが当主になるなど露程にも考えていなかっただろう。そんな元就に、早くも悲劇が訪れる。1501年、元就の母が病死。さらに1506年には父の弘元も、酒毒で死亡した。こうして、元就は若くして両親と死別してしまう。多治比猿掛城を領することとなった元就だったが、さらに苦難の連続であった。1507年、将軍、足利義稙を擁立した西国の大大名、大内義興の上洛に兄の興元も従軍。元就は留守居を任される。そんな最中、家臣の井上元盛により所領を横領され、猿掛城から追い出されてしまう。そんな元就を救ったのが、亡き弘元の側室、杉大方であった。杉大方は、元就の養母として元就を養育し、鍛え上げた。のちに元就は、「私は大方様にすがるように生きていた」と書き残してもいる。元就が杉大方の下で養育されるうちに、朗報が舞い込んできた。なんと、井上元盛が急死したのである。これを好機ととらえた元就は井上俊久・井上俊秀の支援を受け、多治比の知行と猿掛城を奪還した。1511年、元就は元服。「多治比元就」と呼ばれるようになる。

同年8月、船岡山合戦の直前に、吉川元経、毛利興元、天野興定、平賀弘保、高橋久光といった安芸国衆らが結託して、大内に無断で帰国してしまう。

初陣

1516年、帰国した安芸国衆の抑えとして義興は、安芸国分郡守護の武田元繁を帰国させた。しかし元繁は、居城の佐東銀山城で大内を離反。焦った義興は安芸国衆らに武田攻めを命じた。これに呼応した吉川元経、毛利興元は、元繁が己斐城に攻め込んでいる隙をついて、武田方の前線拠点、有田城を攻め落とした。しかしこの直後、兄興元が父と同じく酒毒にて死去。家督はまだ幼い興元の嫡子、幸松丸が継いだ。幸松丸の叔父である元就は、後見人として幸松丸を支える立場となる。しかし、これを好機と見た武田元繁が、吉川の城となった有田城を攻める。これに援軍として駆け付けた、元就や高橋軍は、中井手の地にて武田軍と激突。武田元繁や武田重臣、熊谷元直、香川行景、己斐宗瑞らを討つ大勝利となった。

元就の家督相続と大内氏への帰属

有田中井出の戦いから数年後、出雲国の尼子氏が軟化を始めたために、吉川、高橋、毛利といった国衆らはこれに追従。安芸国における大内方の主要拠点、鏡山城を攻め落とした。しかしこれと同時期に毛利幸松丸が病に倒れ、そのまま早世。一説によると、首実験の場に無理矢理連れて行ったことでショックを受けたことが原因とする説もある。家督は元就が継ぐことで団結したが、これに異を唱える、渡辺勝、坂広秀といった重臣らが、尼子家臣、亀井秀綱の煽りを受けて、元就の異母弟、相合元綱を担ぎ挙兵。これを受けた元就は渡辺、坂、相合らを容赦なく粛清。

その後、大内義興の嫡子、大内義隆率いる25000の大軍が、尼子氏の同盟相手である武田光和(武田元繁の嫡子)を攻めたため、援軍として元就や尼子軍総勢10000が出陣。元就の奇策をもってしてこれも撃破した。しかし、日に日に元就の尼子氏への不信感は強まっていたのである。そしてついに、大内氏の参謀、陶興房の説得や、安芸国での尼子氏の劣勢などを受け、大内氏に帰属することを決断する。他にも、大内氏に攻められていた尼子派安芸国衆の天野興定を説得し、大内氏と和睦させたりもしている。さらに、安芸国や石見国の一部を領する尼子派の髙橋氏を、大内義興と、その息子義隆の命で滅ぼし、毛利領とした。この頃、義興は死去し、義隆が跡目を継いだ。その後、尼子家内で尼子経久の三男、塩冶興久が反乱を起こすという事件が起こる。(塩冶興久の乱)

これにより、尼子経久は大内義隆と和睦し、元就は経久救援のため、月山富田城に入ったという。そこで、経久の嫡孫である尼子詮久(のちの晴久・便宜上、以降は晴久で統一)と義兄弟の契りを結んだ。一方、隣国の宍戸氏とは長年仲が悪かったが、元就は自らの娘を宍戸隆家に嫁がせ毛利一門とするなどの政策も行っていた。この頃には、塩冶興久の乱は興久の自害という形で終結し、尼子氏とは依然、膠着状態が続いていた。

吉田郡山城の戦い

1540年、元就の本拠である吉田郡山城へ向け、尼子晴久の大軍が出陣。元就は兵数において圧倒的に不利な状況にあった。まずは、尼子軍の精鋭、新宮党が備後から攻め入り、宍戸氏の五龍城や祝屋城を攻めた。しかし、宍戸軍の奮戦により備後路からの侵攻は諦めた。一方、晴久率いる3万の本隊が石見路から侵攻。対する毛利軍は吉田郡山城に8000で籠城の構えをとった。両軍は鎗分や池の内などで争うも、膠着状態が続いていた。しかし、青山土取場の戦いで毛利軍により尼子軍は潰走。さらに、大内氏の陶隆房率いる援軍が到着。1541年1月の宮崎長尾の戦いでは、毛利軍が尼子軍を改装させ、大内軍が尼子久幸を討つなどの大戦果を挙げた。そして晴久はここで全軍撤退を決意し、月山富田へと敗走していった。

第一次月山富田城の戦い 開幕

1542年、大内義隆はこれを機に尼子氏を滅亡させるべく、陶隆房や毛利元就らを先遣させて、月山富田城を攻めた。出雲の入り口となる赤穴城を攻めた。しかしここで、想定していたより倍の時間と犠牲をかけてしまった。そしてやっとのことで城を落とし、城将 赤穴光清を討つと、三刀屋市の領土へと侵攻。出雲にて年を越し、年明けから月山富田城の包囲が始まった。この合戦に勝てば、尼子家を滅ぼし、中国地方における大内氏の体制を盤石にできる。逆に敗北すれば、尼子軍が勢いづき、大内氏の存続すら危うくなる。運命の大合戦が今!始まる…

                                           つづく

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